えんのせいかつふうけい(ゆりかごだより)

no5 前園長の思い出特集です 亡き主人を忍んで

(各写真をクリックすると大きくなったり別の写真が見れます)

ゆりかご組の二人はお誕生日が同じ、ちょうど同じ頃の 入園でした。まるで双子の様に育ちましたね 園長先生が大好きでした

奥の方では0歳時のIちゃんが園長先生に 離乳食を食べさせてもらっております 私よりもベテランになって見せると、どんな事にも 真剣になれる園長先生でした

ゆりかご組で私と園長先生に育てられたお友達です 1歳時クラスに進級しました もうすっかり幼児の仲間入りですね

ゆりかごの赤ちゃん達は不思議そうに 見てましたね サンタクロースに扮装した園長先生が 解りません

クリスマス会のサンタクロースを引き受けて くださいました 慌てて昨夜作ったサンタクロースの衣装でしたが どうにかそれらしくなりました 良く似合っておりますよね。

サンタさんってだーれ…ミルクを飲ませてもらった 子供達も サンタクロースが誰だか全く解りません 無関心を装われたり、子供達には歓迎されずに プレゼントをあげて帰りました

ゆりかごだより

亡き主人を忍んで…

(長くなりましたので興味と時間の無い方はとばしてください)  ゆりかご保育園が今こうして在ります現在、この辺で今は亡き夫であります前園長を紹介したい

と思います。五月三十日は前園長の誕生日でしたので、この辺でと思いました。

 私の『小さな保育園を自分の理想のように やれたら…』との永い間の想い、その夢を実現出来

たのは、誰とでもない写真で紹介して来ましたような、故園長と一緒だったからとつくづく思います。

 高校では飛び級をし、水産大学にトップで入学し(後々解った事ですが…) 日本の水産五社の

一社、或る水産会社で、最高の甲種船長の資格を持ち、トロール船の船長をした人でした。

長男、長女と、年子で恵まれた我が子の世話も当時は手を出した事の無い人でした。それが私の

説得に納得して保育園を娘と三人で開園してからは、これほどやってくれるなんてと、私の方が驚

きました。何でも真剣に向き合う姿勢に、普通の男性はここまで出来ないだろうと思った事、それま

で気づかなかった、色々な面を沢山知りました。また、亡くなってから気づいた事が沢山有りました

オムツを替える事から、ミルクをあげる事も、果ては離乳食作りも、私のやっている事を見て覚えた

ら、私よりも手際良く出来るのでした。封建的な世界で船長をした人が、しかもこの年になって…と

心配したのは私の方でした。何より本人にそんな事をやる気が有る事が驚きでした

あっと言う間に入園希望者が増えた時は、本当に心強い最高の保育スタッフとなっておりました。

私達には最高に楽しかった頃です。それがこれから園長先生として、座って居て頂こうと思ってい

た矢先 胆管癌で先に逝ってしまったのでした。開園して三年目の春、ひなまつりの日を境にベット

から離れられなくなってしまい、それからが速く病状の変化について行けない私でした。

 退院後のその生活は、まるで残された者の事を考えたような、その日までの過ごし方でした。亡く

なる十日前に『ぼくは、こうして家で貴方に看てもらえて幸せだったよ。何時でも貴方の後ろに居て

守ってあげるから何も心配無いからね。貴方が居てくれて本当に良かったありがとう』とはっきりと

言って感謝の言葉を残し、その十日後の息を引き取る時には『タノムタノムタノム』と繰り返し、年老

いた母親を私に後を頼んで逝った事でした。癌で逝ったとはとても思えない穏やかな最後でした。

いえ本人は苦しかったのでしょうがその苦しみを見せなかったのです。むしろ私はいつまでも最後

の十日間が私達夫婦の穏やかな一番幸せな時間だったように何時も思い出すのです。

それが時間が経つほどに主人の心遣いだったと思い知る事ばかりでした。日赤病院で、もって年

内と命の限られたのが平成七年の七月。色々検査し薦められた手術をしないと決断し、自宅に帰

ったのが十月でした。胆汁を外に流す袋をつけての退院でした。当時勤めて居た先生達もすっかり

快復しての退院と思っておりました。朝九時に降りて行き先生達に一人一人に挨拶して…と自分の

生活のスタイルを決めて、私が一人になった時の為に『垣根を30センチ程切って逝ってあげよう』

とそのとうりに実行し、食事が食べられなくなってからは、私の食べるのを見て自分が満足するか

らと、保育が終わった後、毎日夕食は色んな所へ出かけて食事をしたのが一ヶ月くらいでした。

食べられなくなってからは、近くの渡部医院の先生に朝晩2回の点滴をして頂きました。そして三月

三日の朝でしたがお手洗いに行った後『こんな物が出たよ』タオルに吐いた真っ黒の血の塊の様な

物を私に見せたのでした。その日を境にベットから起きられなくなり、十四日の朝六時に目を閉じた

のでした。その間、痛いの、苦しい等の言葉を聞いたことがない私は、聞いていた癌の断末魔の苦

しみが…本当の介護がこれからだとばかり思っておりました。『貴方は仕事があるから、階下で寝

なさい。何かあったらこれで呼ぶから』と夜は側に寝かせなかったのでした。さすがにその日から側

に付きっきりに成りましたが、朝晩点滴をしてくださる先生も、「まだまだこんなものでは有りません

よ。怒鳴ったり、わめいたり、大変ですから…」との言葉に「ああこれからなんだ、そんな時が私達

にも訪るのだと覚悟したばかりでした。

介護らしい介護と言えば四日からでした。この日『痛み止めをもう少し増やして貰ったらどうだろう

あれは、麻薬なんだよね』と私に相談したのが、最初で最後の唯一の主人の弱音だったようでした

そして、その後の十日間の何とも言えない穏やかな日々が私達夫婦の一番幸せな時だった様に

思い出されるのです。春は弥生の穏やかな陽射しの中で、今の声は誰?あの泣き声は誰ときかれ

それに答えたり、眠ったらその寝顔を看ながら本を読んで過ごした穏やかな日々でした。十三日の

夜十一時頃いつになく寝返りが多く、あまり動くので始めて往診をお願いしたのでした。そして先生

が言われた様にニ時頃また動きだし主人は『あと四時間だから四時間だから』と繰り返すのでした

手当てとは良く言ったもので、もうどうしようもない私が手でさすってあげると間もなく静かになり、色

々話しているうちに私も眠ってしまったのでした。そしてふと目覚めたのが五時半過ぎでした。主人

の顔を見ると、なんて素敵な顔だろうと思いました。今まで見た事が無い素敵な顔だと思いました。

それは本当に神々しかったのでした。そして自分で言っていた、ちょうど四時間後の朝六時に私の

目覚めるのを待っていたかの様に目を閉じたのでした。其の十日前に私に感謝の言葉をきちんと

残して、最後の時には自分の母親の事を気遣い目を閉じたのでした。

享年六十四歳でした。私とは十年と6ヵ月の差が有りました。

 そうして月日がたつほどに残る者に出来るだけつらい嫌な思い出を残さないように気遣った主人

の様に、私は出来るだろうか?と、とても自信が有りませんが出来るだけ主人の様にに逝きたいと

の思いが強くなります。穏やかな春の陽射しの中での穏やかな十日間が鮮明です。

 残された私が思い出すのは『ボクは幸せだったよ。貴方が居てくれて良かった。何も心配する事

は無い。いつも僕が後ろにいて守ってあげる』と最後の『タノムタノムタノム』という言葉です。

 そして、この言葉で、私が一生救われるのだわと思ったことでした。 Y.I

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